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太陽と雨の中の永遠の存在 / Eternal Existence in the Sun and Rain

teamLab, 2025, Installation
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太陽と雨の中の永遠の存在 / Eternal Existence in the Sun and Rain

teamLab, 2025, Installation

この空間には、生きた苔が広がる。苔の山々は、太陽の日周運動に呼応して輝き、時に《はかない結晶の雨》が降り注ぐ。苔山には、オモト、セッコク、マツバラン、イワヒバといった古典園芸植物が点在する。


価値の逆転:永遠はどこに宿るのか


近代以前の江戸中期から後期(18世紀後半から19世紀前半)、京都は、円山応挙や伊藤若冲らの絵画が成熟し、同時に古典園芸も独自の発達を遂げた。


古典園芸とは、原種から非常に希に出現する突然変異体を見出し、選抜・保存して受け継いできた、江戸時代に独自の発達を遂げた園芸文化である。当時、これらは、現代のアートのオークションのように高額で二次流通し、一株で豪邸が建つほどの価値を持つものさえ存在した。 研究によれば、天保期(1830〜44)には1株300〜400両まで高騰し、18世紀末には1鉢2,300両という高値の記録も残っている。


対照的に、応挙や若冲らの絵画は当時、資産として転売を繰り返される存在ではなかった。応挙の一次市場(制作費)の例としては、三幅対の作品で3両と記録されている。近代に差し掛かる幕末になって「書画価格録」(1861)に、二次流通として応挙作品が登場し「金一枚」(幕末相場で約25両)とされ、市場価値が最上位だったと記述されているが、それでも園芸植物とは比較にならないほど低かったのである。


近代に入り、この価値観は逆転していく。現代において園芸植物が巨額の資産として流通することはないが、絵画は莫大な金額で二次流通する。 この差は、私たちが「何を永遠だと認識しているか」によって変わったのではないだろうか。


「閉じた系」の永遠、「開いた系」の永遠


高額で二次流通するものは、それが無意識であれ「永遠に存在する」と信じられている。

現代の人々は、無意識に「植物は枯れて死ぬ、永遠性を持たないもの」だと思い、逆に「絵画は永遠性を持つもの」だと思っている。


現代の都市は、人間が作ったもの、つまり物体で覆われている。物体の存続には、外部からのエネルギーと物質の交換をする「開いた系」は必要ない。むしろ、外界から分断された閉じた箱の状態「閉じた系」であることこそ、物体の永続性には理想とされる。

物体に囲まれた現代は「閉じた系」を前提に世界を捉えているのかもしれない。この世界を閉じた系だと認識した時、絵画は劣化を免れる「永遠」に近づき、植物は枯れて死ぬ「一瞬」の存在となる。


しかし、本来この世界は「開いた系」である。 

太陽があり、雨が降る。エネルギーと物質の循環がある限り、オモトなどの古典園芸植物は、永遠に自らを更新し生き続けられる。実際、ここに点在する古典園芸のいくつかは、江戸期に「奇跡の変異」として見出され、現代の作品タイトルのように命名された「一個体」が、300年もの間、人の手によって鉢を変え、株分けされ、一度も命を絶やすことなく現代まで残り続けてきたものである。


近代以前の人々は、無自覚にしろこの世界を「開いた系」だと思っていたのかもしれない。

京都の禅寺で名画が庭に開かれた場所に置かれ、剥落し、原型を失った姿を見ることができる。剥落するにも関わらず、庭に開かれた場所に置かれていたのだ。1300年以上にわたって続く伊勢神宮の式年遷宮のように、20年ごとに全てを壊し建て替えることで永続性を保つという精神性もまた、この世界を「開いた系」と捉えるからこそ成立する。


この世界を「開いた系」だと認識した時、古典園芸植物は永遠性を持ち、逆に、「閉じた系」だと認識した時、絵画は永遠性を持つ。

世界の前提をどう置くかによって、何が永遠であるかという認識が変わり、結果として、高額で二次流通する対象も変わったのかもしれないのだ。

永遠性とは、この世界の前提によって変わる。


Nature-madeの立体作品


植物における突然変異は、安定を破る「新しい情報の創出」である。古典園芸は、「今まで誰も見たことがない姿」の一個体を自然界から見出し、その生と死の境界線にある不安定な変異個体を、鉢に入れ、数百年間維持し続けた。

これは、自然界が放った一度きりの奇跡を、人間が「開いた系」の中で安定した「情報」へと昇華させ、介入し続けることで固定したものである。それは、開いた系を前提とした「Nature-made」の立体作品である。


チームラボもまた、「開いた系」を前提とした立体作品を試みている。《質量も形もない彫刻》、《変容する連続体》、《生と回帰の無常の抽象》、《Levitation with Satellite》といった「High Order Sculpture」と呼んでいる作品群は、「開いた系」を必要としないこれまでの物体的な存在とは根本的に異なり、「開いた系」を前提とした存在である。

しかし、古典園芸は、数百年前に作られ、文化的に続いてきた「開いた系」の立体作品そのものであるかのように思えるのだ。


この苔が広がる空間は、「小さな開いた系」である。

ここは、「永遠とは何か」を問い直す場であり、開いた系の永遠の存在と共生する、儀式的な小宇宙である。

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